黒田官兵衛の逸話

黒田官兵衛の逸話記事一覧

姫路城で生まれる|黒田官兵衛の逸話

 天文14年、官兵衛の父、黒田職隆(もとたか)は明石城主明石宗和(正風)の娘お岩と結婚、同時に当時の主君である御着(ごちゃく)城主小寺則職(こでらのりもと)から小寺の姓を受けます。同年、小寺則職が御着城主を嫡男の政職に譲り、それに伴い、職隆の父、黒田重隆が御着城から姫路城に移り、城代(留守中の城主)...

≫続きを読む

 

母の死を乗り越え強くなろうと思い立つ|黒田官兵衛の逸話

 腕白な万吉は、7つになると浄土宗の寺で学問を受けるようになります。寺の住持円満(えんまん)に文字の読み書きを習います。しかし、万吉は好きになれません。それどころか一人で遊びに行ってしまい、休むことが珍しくなかったそうです。しかし、早めに年長者の組に入れられてからは、漢文を素読したりその意味を追った...

≫続きを読む

 

元服とほぼ同時に仕官が決まる|黒田官兵衛の逸話

 永禄4年(1561年)、黒田官兵衛(幼年、万吉)は元服を迎えます。姫路城主に任じられた父職隆が進めていた城の改築が一段落すると、検分のため、親城である御着城主小寺政職が鷹狩りの帰りに立ち寄りました。官兵衛が御膳運びをしたところ、そのきびきびした所作が政職の目に止まり、仕官するよう誘い入れます。こう...

≫続きを読む

 

17歳で初陣を飾る|黒田官兵衛の逸話

 小寺政職への仕官が決まった官兵衛の意気込みも並々ではありません。あくる永禄5年(1562年)、近くの土豪が領地を荒らしに攻めてきました。それを知った官兵衛は自ら名乗りでて、一門総出の励ましを受け、父職隆と出陣し、あっという間に討伐してしまいます。この時官兵衛17歳、鮮やかな初陣でした。栗山善助を得...

≫続きを読む

 

結婚と同時に家督を譲り受ける|黒田官兵衛の逸話

 戦で手柄を立てると、周りのものらは官兵衛が身を固めるよう世話を焼き始めます。そんな折、主君の小寺政職が姪を官兵衛の妻として勧めてきました。その人は御着城にほど近い志方城(しかた)の城主櫛橋伊定の娘で、名を光(てる)といいます。 櫛橋氏はもともと相模国大住郡櫛橋郷(神奈川県伊勢原市串橋)を本拠にして...

≫続きを読む

 

長男長政誕生|黒田官兵衛の逸話

 結婚の翌年、永禄11年(1568年)、官兵衛の長男が誕生します。松寿(しょうじゅ)と名付けられ、皆に松寿丸と可愛がられます。後の黒田長政です。 さらに翌年永禄12年、母里太兵衛(もりたへえ)が14歳で付従うようになります。妻鹿(めが)の地侍の父曽我一信(そがいっしん)が職隆に従っていて、太兵衛もそ...

≫続きを読む

 

慧敏な奇襲で赤松政秀を破る|黒田官兵衛の逸話

相変わらずの同士討ちに苦悩する官兵衛 家督、有能な家臣、そして嫁を手に入れた官兵衛。そろそろ天下取りの争いに加わってもよさそうなのですが、近隣の同士討ちが治まらないので、好機が得られません。官兵衛は、佐用郡長ノ坪(さようぐんちょうのつぼ)に攻めて城を奪います。そこを治めたかと思うと、龍野城の赤松政秀...

≫続きを読む

 

織田信長と羽柴秀吉に初めて対面する|黒田官兵衛の逸話

 天正三年(1575年)、官兵衛は天下取りの流れが大きく織田信長に動いていると推察します。この時有力な天下人として信長の他に毛利輝元がいましたが、毛利元就亡き後の輝元には天下取りの器量はないとみたからです。 そして官兵衛自ら小寺政職に織田信長との折衝の使いを申し出ます。政職はこれを認め、官兵衛に小寺...

≫続きを読む

 

中国征伐の先導役に就く|黒田官兵衛の逸話

 信長に初対面した官兵衛。その折に中国征伐について進言します。「もし中国をご征伐されるなら、調略の巧みな武将を播磨に遣わせてください。私も御着城主小寺政織とともに、配下を率い、殿のために功をあげてみせます」 信長は身を起こして言います。「播磨は敵ではない。調略巧みな者を派遣して中国攻めをしたいのはわ...

≫続きを読む

 

長男と長政を信長に人質として送る|黒田官兵衛の逸話

播磨諸国を織田側につかせる 黒田官兵衛の勧めにより、小寺政職は信長に従うことを決めます。当時、小寺氏は毛利輝元、織田信長のいづれにつくか迷っていました。官兵衛は、毛利輝元はまだ幼く家中の統率なく不安定、しかも輝元自身に一国を治める器量はないと評しました。一方、織田信長については、尾張藩国から出世し大...

≫続きを読む

 

信長が秀吉を毛利攻めに出陣させる|黒田官兵衛の逸話

秀吉から軍師を指名される 織田信長は羽柴秀吉を大将に毛利攻めの大軍を送り込みます。天正5年(1577年)10月23日、兵を率いた秀吉は播磨路に入るのでした。 黒田官兵衛は、秀吉を姫路城に招き、住まわせます。そこで、秀吉は官兵衛に2つの誓文を贈りました。それは「これからは兄弟の親しみを取り結ぼう」「両...

≫続きを読む

 

相次ぐ離反、官兵衛摂津有岡城に幽閉される|黒田官兵衛の逸話

上月城を奪い返される 上月城を奪い、いよいよ中国征伐へと意気込む秀吉軍ですが、ここで問題が起こります。天正6年(1577年)3月7日、加古川城にて、織田側についている播磨諸城の城主を集め、中国攻めの分担を決めることになりました。その席で別所氏が離反の意を表明してしまうのです。怒った秀吉は別所長治が城...

≫続きを読む

 

摂津有岡城落城、官兵衛救出される|黒田官兵衛の逸話

摂津有岡城落城、官兵衛救出 織田方による摂津有岡城の包囲が1年近く続いた天正7年(1579年)9月2日、城主荒木村重はついに音をあげ、妻だしや子らを見捨てて夜中に手勢数人を連れて尼崎城の方角へ逃げ出しました。すると摂津有岡城の城兵が続々と織田側に降って出ていきます。織田方の兵は一気に城内に攻め込み、...

≫続きを読む

 

秀吉、三木城の別所長治を自刃させる|黒田官兵衛の逸話

 黒田官兵衛は姫路城に帰りしばらく静養することになりました。三木城の合戦は「両兵衛」を欠いたまま進みますが、秀吉の徹底した兵糧攻めにより、三木城は悲惨な状況に追い込まれていくのでした。 また、秀吉は黒田職隆の弟黒田休夢に三木城の攻略方法を伝えており、休夢もこれに応え三木城の合戦で活躍します。秀吉の休...

≫続きを読む

 

小寺姓から黒田姓に戻る|黒田官兵衛の逸話

 三木城を落とした秀吉は、天正8年(1550年)4月までに、英賀城(あがじょう)と長水山城(ちょうすいさんじょう)を攻め落とし播磨を制圧します。回復した官兵衛は秀吉に招かれ、三木城に出向きます。「摂津有岡城では苦労をかけた。憎いのは毛利方に寝返った小寺政職だ。逆臣の姓となった小寺姓を捨てるが良い」 ...

≫続きを読む

 

一万石の大名になる|黒田官兵衛の逸話

中国攻めに向け姫路城を改築する 官兵衛は、三木城を中国攻めの拠点にするには後方過ぎるのではないかと考え、自らが城主を務める姫路城を秀吉に使うように進言します。秀吉は官兵衛の住処を心配しますが、官兵衛は国府山城(こうざんじょう)に住むと聞くと、気を楽にし官兵衛から姫路城を譲り受けることを決めます。次に...

≫続きを読む

 

備中高松城を水攻めする|黒田官兵衛の逸話

備中高松城の攻略に乗り出す 秀吉の軍勢は備中に入ります。天正10年(1582年)3月15日、姫路城を出た2万の兵は備前で3万になります。宇喜多直家の跡を継いだばかりの少年備前岡山城主秀家を支える重臣らが兵を加勢したからでした。官兵衛が宇喜多直家を仲間に加えた成果がここで生きました。 秀吉軍は備中高松...

≫続きを読む

 

信長の死を知り、秀吉に明智光秀討伐を進言する|黒田官兵衛の逸話

備中高松城攻略中、信長の死を知り、明智光秀討伐を進言する 水に囲まれた備中高松城は次第に窮地に追い込まれていきます。毛利側は秀吉と交流のある安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を使者に立て和平に臨みます。官兵衛も強気で領土の分与と高松城主清水宗治の首を求めます。安国寺恵瓊は悩みますが、信長が進軍してくるこ...

≫続きを読む

 

山崎の戦いで明智光秀を破る|黒田官兵衛の逸話

差し迫った状況のなか思案を巡らせる 姫路城を出た秀吉の大軍は摂津尼崎を目指します。光秀は、織田方の有力武将がいずれも交戦中なのですぐには動けぬだろうと目論見ます。官兵衛はそんな光秀の目論見を砕こうと足を速めるとともに、2つの策を実行します。 摂津茨木城主中川清秀ら光秀に味方しかねない武将宛に「信長様...

≫続きを読む

 

清須会議にて信長の後継者が秀吉が推す三法師に決まる|黒田官兵衛の逸話

 光秀滅亡後、注目されたのは、信長の後継者は誰かということでした。 山崎の合戦で信長の仇を討った秀吉は、当然後継者の有力候補です。黒田官兵衛はこの勢いで秀吉を天下に押し出したいと意気込みます。しかし、実際は織田一族の誰かを擁立してそれを支えるという形式にならざるを得ません。そんな時、織田勢のなかで随...

≫続きを読む

 

賤ヶ岳の合戦に勝利する|黒田官兵衛の逸話

勝家の攻撃に官兵衛も圧倒される 秀吉が巧みな手段で勢力を伸ばしていくほど、柴田勝家を刺激し、いくつかの小競り合いが起こりました。そしていよいよ、全面対決の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)に入っていきました。 天正11年(1583年)3月12日、勝家は前田利家、佐久間盛政ら約3万の軍勢を率い、北近...

≫続きを読む

 

揖東郡1千石を増加され、2万1千石となる|黒田官兵衛の逸話

 天正11年(1583年)10月2日付けで、黒田官兵衛は播磨の揖東郡1千石を加禄されて2万1千石の所帯となりました。 先の賤ヶ岳の戦いでの活躍を始め、軍師として秀吉を補佐してきたにしては、禄があまりにも少なすぎます。 これには、秀吉が本能寺の変を知った際に、官兵衛が「ご運が開かれます」と冷静に進言し...

≫続きを読む

 

長男長政が秀吉の養女と結婚|黒田官兵衛の逸話

 天正12年(1584年)1月、17歳になる黒田官兵衛の長男長政が妻を娶りました。 相手は秀吉の養女で、蜂須賀正勝の娘、糸姫でした。この時11歳でした。 秀吉は前年の晩秋、官兵衛夫妻と長政の屋敷を訪れ、長政に糸姫との結婚を薦めてきていたのでした。 秀吉自ら話を持ってきていることから、この頃の秀吉はよ...

≫続きを読む

 

キリスト教の洗礼を受ける|黒田官兵衛の逸話

 天正11年(1583年)、黒田官兵衛が38歳の頃、キリスト教の洗礼を受けます。 天文18年(1549年)にフランシスコ・ザビエルが渡来すると、大友氏の庇護を受けながらキリスト教の布教に努めました。その甲斐があって、キリスト教は九州を端緒として、次第に全国へ普及していきました。信長は仏教教団の勢力拡...

≫続きを読む

 

織田信雄、家康と通じて秀吉に抗する(小牧・長久手の戦い)|黒田官兵衛の逸話

 天下を手にしたも同然の秀吉ですが、それを面白く思わない者もいます。信長の次男織田信雄(おだのぶかつ)です。父の後継者になれず、信長の1家臣に過ぎなかった秀吉が天下に近づいているので当然気に入りません。 官兵衛は蜂須賀正勝を伴って、毛利氏と境界の話をするため、中国路へ入りました。その間をねらったのか...

≫続きを読む

 

秀吉、長宗我部元親を降伏させる|黒田官兵衛の逸話

四国、長宗我部元親の台頭 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は土佐国岡豊(おこう)、今の高知県南国市生まれで、並み居る豪族を抑えて土佐を統一すると、阿波、伊予、讃岐も平定し、四国の覇者となりました。このような状況を秀吉が放っておくはずがなく、天正13年、秀吉は元親に対し伊予・讃岐を返上し、土佐・阿...

≫続きを読む

 

秀吉、従一位関白に叙任される|黒田官兵衛の逸話

 黒田官兵衛たちが四国で戦っている最中の天正13年(1585年)7月1日、秀吉は従一位関白に就任します。このころ、秀吉の官位の昇進ぶりは凄まじいものでした。明智光秀を討って、官位従五位下を得ました。2年半後の天正13年3月には正二位内大臣に任じられました。そこからわずか4ヶ月後、左大臣を飛び越えて従...

≫続きを読む

 

秀吉、島津義久を破り、九州を平定|黒田官兵衛の逸話

九州平定に向け意気軒昂 九州では島津氏が覇権を握らんとしていました。各地を制圧し、豊後まで至ろうとしています。豊後の大友宗麟は秀吉に救援を依頼します。秀吉は島津に停戦命令を出し、薩摩、大隅、日向(ひゅうが)の3国と肥後、肥前の半国以外は元の領主に返せと命じますが、島津氏は詭弁を弄して応じません。しか...

≫続きを読む

 

官兵衛、豊前6郡12万石となる|黒田官兵衛の逸話

 天正15年7月3日、九州平定の論功行賞が行われました。黒田官兵衛も42歳、国を治めるだけの経験は積んでおり、先の九州平定でも軍奉行として十分に務めあげました。ところが、官兵衛に与えられたのは豊前1国ではなく、8郡あるうちの6郡12万石でした。豊前の残り2郡8万石は毛利吉成に与えられました。なお、最...

≫続きを読む

 

秀吉、バテレン追放令を出し、キリシタン信仰を禁制する|黒田官兵衛の逸話

 天正15年(1587年)、秀吉は九州平定後、キリスト教と南蛮貿易に関する禁制文書、いわゆるバテレン追放令を出し、キリスト教に対して活動を極めて制限しました。 個人が自分の意思でキリスト教を信仰する事は禁止していないものの、キリスト教の布教は著しく規制されました。 官兵衛は秀吉のキリシタン禁制を唐突...

≫続きを読む

 

一揆を鎮める|黒田官兵衛の逸話

肥後を中心に一揆が起こる 黒田官兵衛は、九州平定の論功行賞で得た領地豊前6郡の中で馬ヶ岳城を居城とし、領内の治安を保つために触れを出しました。そんななか、肥後の各地で豪族が蜂起し、よそ者の佐々成政の治世は受け入れられぬと一揆が起こりました。秀吉は官兵衛に支援に行くよう命令します。官兵衛が肥後の支援に...

≫続きを読む

 

家督を長政に譲る|黒田官兵衛の逸話

 黒田官兵衛は馬ヶ岳城から完成した中津城への移転が終わると、所用で肥後に向かいます。留守を預ける長政にこう言います。「宇都宮鎮房はまだ恨みを持っている。わしの留守を見計らい築城祝と称して攻め込んでくるかもしれない。その時は城に招き入れて誅殺するがよい」これには城井谷城の戦いで敗北を喫した長政に自信を...

≫続きを読む

 

小田原征伐に参謀として臨む|黒田官兵衛の逸話

 九州を平定したいま、秀吉が名実ともに天下人となるには、関東以北を攻め落とさなければなりません。とくに小田原を拠点に関東の大半と駿河の一部を合わせた300万石近い領地を持つ北条氏の打倒に秀吉は闘士を燃やすのでした。 天正17年(1589年)12月、秀吉は北条氏政・氏直親子に宣戦布告します。天正18年...

≫続きを読む

 

秀吉、小田原北条氏を平定し、天下統一なる|黒田官兵衛の逸話

 天正18年(1590年)4月以降、北条氏の支城は次々と陥落し、支城同士の連携は機能しなくなっていきました。小田原の合戦は秀吉軍優勢で進みますが、合戦が長引き、厭戦気分が漂っていたのも事実でした。 そこで黒田官兵衛は北条氏政の次男で武蔵国岩槻城主の太田氏房に狙いをつけます。氏房は合戦が始まると小田原...

≫続きを読む

 

参謀長として朝鮮へ出陣するも病を理由に帰国する|黒田官兵衛の逸話

朝鮮出兵の準備が進む 小田原の合戦が終わると、秀吉はかねてからの夢であった中国大陸への出兵を企てます。しかし、その玄関口である李氏朝鮮との交渉が決裂し、朝鮮出兵を決意します。天正19年(1591年)、朝鮮出兵の準備として軍の本拠とする肥前名護屋城を築きます。加藤清正、小西行長ら九州の大名は築城の担当...

≫続きを読む

 

再び朝鮮へ渡る|黒田官兵衛の逸話

 文禄の役は、黒田官兵衛が予想した通り、明が南下してきたことにより、戦況が激化しました。 豊前で静養していた官兵衛に秀吉は命じられ、文禄2年(1593年)2月に再び朝鮮に渡ります。秀吉の命は、せめて南朝鮮の領有くらいははっきりさせて来いというかなり具体的なものでした。官兵衛は現地に着き、そのことを伝...

≫続きを読む

 

黒田節の由来|黒田官兵衛の逸話

 文禄の役の停戦交渉が行われている頃、伏見の福島正則の屋敷に、朝鮮から一旦帰国した母里太兵衛が、黒田長政の名代として挨拶に行きました。そこで家中の者が集まって酒盛りが開かれました。厭戦気分を吹き飛ばすという目的もあったようです。先方に失礼があってはいけないと同僚から酒を飲むなと言われていたにも関わら...

≫続きを読む

 

慶長の役の最中、秀吉没する|黒田官兵衛の逸話

 慶長2年(1597年)2月、再び14万の兵が渡海し、慶長の役が始まります。黒田官兵衛は小早川秀秋の軍監として出兵します。ところが、その翌年、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没し、その報せを聞いた日本軍は撤退するほかありませんでした。 黒田官兵衛は秀吉没を知ると、取り残された気持ちを感じつつ...

≫続きを読む

 

次は家康と予言する|黒田官兵衛の逸話

 慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没すると、次は誰が天下人になるかといろいろ思惑が渦巻きます。 一粒種の秀頼が最も近いのではないかとする声が多い中、黒田官兵衛は、豊臣家が二代続いても太閤のような治め方はできないと言います。 秀吉には皆親しみをもって近づいてきたのに対し、秀頼には自らの欲のため...

≫続きを読む

 

東軍につく意志を固める|黒田官兵衛の逸話

石田三成が家康の矢面に立つ 黒田官兵衛の予想通り、秀吉亡き後は、徳川家康が地歩を固めていきます。 本来なら豊臣家臣の最長老前田利家が家康の前に立ちはだかる存在でしたが、慶長4年(1599年)3月3日、秀吉の後を追うように逝ってしまいました。 そこで頭角を表してきたのが、五奉行の実力者、石田三成です。...

≫続きを読む

 

近隣の動きを牽制しつつ、九州から上方の情勢を窺う|黒田官兵衛の逸話

九州では西軍につく諸将が目立つ 九州では西軍につく諸将が目立ちます。肥後宇土20万石の小西行長薩摩60万石の島津義弘筑後柳河13万石の立花宗茂肥前佐賀35万石の鍋島直茂筑前久留米13万石の毛利秀包(もうりひでかね)豊前小倉8万石の毛利吉成筑前名島35万石の小早川秀秋(後に東軍に寝返る) 一方、東軍は...

≫続きを読む

 

関ヶ原の戦いは半日で決する|黒田官兵衛の逸話

石垣原の戦い 慶長5年(1600年)9月9日、関ヶ原の戦いが始まる6日前、黒田官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ました。 九州の諸城は、城主が東上しており、城主の親戚などが城主を任されていました。官兵衛はまず豊後の安岐城(あきじょう)に向かいます。ここも城主熊谷直盛は関が原に向かっており、叔父が城を...

≫続きを読む

 

九州の西軍を攻め、7つの城を落とす|黒田官兵衛の逸話

 関ヶ原の戦いは終わったものの黒田官兵衛の戦いは続きます。徳川の治世を受け入れやすくしておくために、九州の中心となる豊前、筑前、筑後の攻略にかかったのです。 慶長5年(1600年)10月5日、まずは小倉城の支城である香春城(かわらじょう)を攻めかかります。しかし、すでに城主は関ヶ原で戦死していて、引...

≫続きを読む

 

長政筑前国52万5千石となる|黒田官兵衛の逸話

 黒田長政の関ヶ原の戦いでの活躍はすさまじいものでした。調略においても小早川秀秋や吉川広家などの諸将の寝返りを交渉する役目も努めており、東軍勝利の一番の功労者として、筑前国名島52万5千石を与えられます。ここまでの加禄がされたのは戦功のおかげだけでなく、家康の養女を妻にしていたからとも推測されていま...

≫続きを読む

 

福岡城の築城を指揮|黒田官兵衛の逸話

 普請奉行(ふしんぶぎょう)野口左助を中心に福岡城の築城は進みます。 慶長7年(1602年)になると、名島城跡地からも石が運び込まれ、天守台の石垣が日毎に高くなっていきます。やがて連綿で堅牢な石垣が完成します。福岡城が別名石城と呼ばれるのはこのためです。 その年の秋、黒田官兵衛は福岡城外側の国境沿い...

≫続きを読む

 

長政に遺言を託し、伏見の藩邸で没す|黒田官兵衛の逸話

栗山善助に長政の補佐を託す 黒田官兵衛の京都猪熊での暮らしが始まります。しかし、程なくして体の不調を訴えるようになり、有馬に湯治に行きます。慶長9年(1604年)、有馬から帰り、京都伏見の藩邸に移ります。官兵衛はそこでほとんど床の中で過ごすようになります。 家臣らが見舞いに訪れますが、官兵衛はこれら...

≫続きを読む

 

 

花燃ゆ

 

真田丸