黒田官兵衛

黒田家記事一覧

黒田家 略家系図

宇多天皇……佐々木氏……黒田宗満―黒田宗信―黒田高教―黒田高宗―黒田高政――黒田重隆―黒田職隆→―黒田官兵衛→├黒田利高├黒田利則└黒田直之―黒田長政→└黒田熊之助―黒田忠之……├黒田政冬├黒田長興└黒田隆政黒田官兵衛までの黒田家 宇多天皇(うだてんのう)の孫雅信(まさのぶ)が平安時代前期に臣籍に下...

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黒田職隆

 黒田重隆(くろだしげたか)の嫡子、黒田官兵衛の父。 播磨御着城主・小寺政職(こでらまさもと)の重臣で姫路城主。 通称は兵庫助(ひょうごのすけ)、美濃守(みののかみ)。諱は職高とも表記します。 生没年、1524~85。 備前福岡(現岡山県瀬戸内市)で生まれ、成長後に父重隆と播磨へ移り住み、御着城主の...

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明石氏(お岩)

 明石宗和(あかしむねかず)の娘、播磨御着城主・小寺政職(こでらまさもと)の養女。名はお岩。 黒田職隆の正室、黒田官兵衛の母。 法号は心光寺殿。 生没年、1531~59。 宗和は摂津枝吉城主ですが、関白近衛家の歌道師範を務めた繋がりで、お岩は京都で育ったという説もあります。 夫黒田職隆との間に官兵衛...

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 黒田官兵衛の妻。黒田長政、黒田熊之助の母。雅号は幸円。 播磨志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘、小寺政職の養女。 生没年、1553~1627。 官兵衛より7歳年下。官兵衛の主、政職の養女となった上で、永禄10年(1567年)頃、官兵衛に嫁いだと推測されています。 婚姻の際、実父伊定が合子形...

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黒田長政

 黒田官兵衛の嫡男。豊前中津城主、筑前福岡藩初代藩主。 母は光。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。洗礼名はダミアン。 生没年、1568~1623。 織田信長の元、人質生活を送っていた天正6年(1578年)、父官兵衛が摂津有岡城に幽閉されます。信長は官兵衛が寝返ったと誤認し、長政を処分するように命じます...

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黒田熊之助

 黒田官兵衛の次男。 母は光。幼名は熊松(くままつ)。 生没年、1582~1597。 慶長2年(1597年)、兄黒田長政が朝鮮出兵に参加していました。熊之助は兄の陣中見舞いとして、7月16日、黒田一族や重臣の子弟らを率いて、中津から船で朝鮮半島を目指しました。しかし、玄界灘で行方不明となり、溺死した...

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黒田忠之

 黒田長政の嫡男。黒田官兵衛の嫡孫。筑前福岡藩藩主。 母は継室・保科正直の娘栄姫。幼名は万徳丸(まんとくまる)。 生没年、1602~1654。 元和9年(1623年)、父長政の病没に伴い福岡藩主となります。しかし、忠之は官兵衛、長政時代からの功臣を退けて、倉八十太夫らの側近を重用します。倉八十太夫ら...

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黒田利高

 黒田職隆の次男。黒田官兵衛の弟。 母は明石宗和の娘お岩。黒田二十四騎。 生没年、1554~1596。 黒田官兵衛の重臣として、天正13年(1585年)の四国征伐、天正15年(1587年)の九州征伐に参加します。戦後に官兵衛が豊前6郡を与えられると、1万石を与えられ豊前高森城主となります。 文禄元年...

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黒田利則

 黒田職隆の三男。黒田官兵衛の異母弟。 母は継室・神吉氏。黒田二十四騎。 生没年、1561~1612。 豊臣秀吉、秀吉の弟秀長に仕えたのち、黒田官兵衛、長政の重臣として活躍します。 天正15年(1587年)、九州征伐に参加します。官兵衛に豊前6郡が与えられると、その家臣として2千石を与えられます。 ...

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黒田直之

 黒田職隆の四男。黒田官兵衛の異母弟。 母は継室・母里氏。黒田二十四騎。洗礼名パウロ。 生没年、1564~1609。 豊臣秀吉、秀吉の弟秀長に仕えたのち、黒田官兵衛、長政に属します。天正14年以降は官兵衛に仕え、九州征伐に参加します。 慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは、筑後柳川城、筑後久留米...

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花燃ゆ

 

真田丸