信長が秀吉を毛利攻めに出陣させる|黒田官兵衛の逸話

信長が秀吉を毛利攻めに出陣させる

秀吉から軍師を指名される

 織田信長は羽柴秀吉を大将に毛利攻めの大軍を送り込みます。天正5年(1577年)10月23日、兵を率いた秀吉は播磨路に入るのでした。
 黒田官兵衛は、秀吉を姫路城に招き、住まわせます。そこで、秀吉は官兵衛に2つの誓文を贈りました。それは「これからは兄弟の親しみを取り結ぼう」「両者いずれかの身代が悪ければ、相方の面倒を見続けよう」といったものでした。さらに、秀吉から「毛利攻めにあたっては軍師としての指示を仰ぎたい」と告げられます。官兵衛は軍師として生きる意志をしっかりと受けとめられたと感激に顔を歪めるのでした。

 

 この後、官兵衛は秀吉を案内して播磨の諸城を巡りました。どの城も織田側に従うことを表明し、降伏の印として人質を差し出し、それを三木城主の別所長治に預けました。秀吉は別所に「中国征伐にあたっては奮闘してくだされ」と声をかけます。しかし別所は「いや御隊には知略に優れた黒田様がいますから…」と語尾を濁します。官兵衛は嫌な予感がして気が気でありません。さらには、親城の御着城主小寺政織でさえ、毛利指示に傾き始めていたのです。人質を出した他の城主にしても真意はよく分かりませんでした。

 

竹中半兵衛との出会い

 秀吉にはもう一人従う軍師がいました。それが竹中重治(通称半兵衛、以下竹中半兵衛)でした。官兵衛と半兵衛はともに秀吉を支えた軍師としてよく「両兵衛」と称されています。半兵衛は官兵衛より2つ、3つ年上で、まもなく起こる三木城攻めの最中36歳で没することになります。秀吉の人生の前半の軍師を半兵衛とすれば、後半の軍師が官兵衛といったところでした。
 官兵衛は半兵衛に秀吉から貰った誓文を誇らしく見せます。すると、半兵衛は何を思ったかその誓文を火のおこった火鉢に投げて燃やしてしまうのです。
 「どうしてくれるのだ」と灰となった誓文を無念そうに見つめる官兵衛に、半兵衛は平然とこう答えます。
 「約束など信じられぬ世の中だ。紙切れ一枚で、約束を守る守らないで秀吉殿を恨んだりしたりして、かえってつまらない結果になるだけだ」
 半兵衛は誓文にこだわる愚かさを説いたのです。すると官兵衛も「たしかにその通り、文面にこだわって大事なことを見失うかもしれませんな」と真意を察するのでした。
 このあたりの半兵衛の忠告の適切さも、すばやく真意を察する官兵衛の判断力も、さすがに秀吉が選んだ両兵衛といったところでした。

 

囲師必闕の策で佐用城を落とす

 西播磨は中国毛利側に近く、佐用城主福原助就(ふくはらすけなり)は未だ織田側に従いません。天正5年(1577年)11月下旬、秀吉は1万5千の兵で佐用城(さようじょう)を包囲しました。
 ここで軍師官兵衛は、孫子の兵法にある「囲師必闕(いしひっけつ)」が浮かんだと伝えられています。囲みの1箇所を開いておくという、囲み方のことです。
 官兵衛は城の三方を秀吉兵で囲みました。すると、開けておいた一方から城兵が逃げ出したのです。それを待っていた秀吉の伏兵が次々と城兵を倒していきます。官兵衛の策が見事に成功し、佐用城は陥落しました。城主の福原助就はかろうじて逃げたものの兵が全滅に近いと知ると、菩提寺である福円寺に入って自刃しました。
 また、この戦いでは竹中半兵衛も多くの敵を討ち取りました。官兵衛と半兵衛が初めて一緒に戦った合戦となりました。

 

 このとき秀吉勢は宇喜多直家の軍を破り、その勢いで毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた上月城を攻めたてます。天正5年12月3日、上月城は陥落しました。上月城には尼子勝久が入り、秀吉から守備を命じられました。

 

花燃ゆ

 

真田丸

 

 

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姫路城で生まれる
天文15年、黒田官兵衛、幼名万吉が姫路城で生まれます。
母の死を乗り越え強くなろうと思い立つ
永禄2年、黒田官兵衛(幼名、万吉)は母親をなくしたことで内向的な性格になり、文学に耽溺するようになります。そんな万吉は、あることをきかっけに内向気分を振り切ります。
元服とほぼ同時に仕官が決まる
永禄4年(1561年)、官兵衛(幼名、万吉)は元服します。また、ほぼ同時に小寺政職への仕官が決まります。
17歳で初陣を飾る
小寺政職への仕官が決まった官兵衛の意気込みも並々ではありません。あくる永禄5年(1562年)、初陣を飾ります。
結婚と同時に家督を譲り受ける
永禄10年(1567年)、官兵衛は櫛橋伊定の娘光と祝言を挙げました。
長男長政誕生
永禄11年(1568年)、長男長政が誕生します。
慧敏な奇襲で赤松政秀を破る
相変わらずの同士討ちに苦悩する官兵衛。そんななか、永禄12年(1569年)、龍野城主赤松政秀が攻めてきました。
織田信長と羽柴秀吉に初めて対面する
天正三年(1575年)、天下取りの流れは大きく織田信長に動いていると信じていた官兵衛は、自ら織田信長との折衝の使いを申し出たのでした。
中国征伐の先導役に就く
信長、秀吉と初対面を果たした官兵衛。同時に信長から中国征伐の先導役を任されたのでした。
長男と長政を信長に人質として送る
信長は中国討伐のため播磨に秀吉を送り込むことを決めました。その代わり、播磨の有力武将を人質として求めてきました。
相次ぐ離反、黒田官兵衛、摂津有岡城に幽閉される
中国征伐に意気揚々の秀吉軍、しかし播磨諸城が相次いで毛利側に寝返り、官兵衛は摂津有岡城に幽閉されてしまうのでした。
摂津有岡城落城、官兵衛救出される
余りに長引く包囲についに荒木村重が音を上げ、摂津有岡城は落城し、官兵衛は救出されます。
秀吉、三木城の別所長治を自刃させる
黒田官兵衛は姫路城に帰りしばらく静養することになりました。三木城の合戦は「両兵衛」を欠いたまま進みますが、秀吉の徹底した兵糧攻めにより、三木城は悲惨な状況に追い込まれていくのでした。
小寺姓から黒田姓に戻る
秀吉は官兵衛に黒田姓に戻すよう勧めます。
一万石の大名になる
播磨制圧の論功行賞として黒田官兵衛は1万石の知行を与えられ大名に列することになりました。
備中高松城を水攻めする
秀吉軍は備中高松城の攻略にかかります。黒田官兵衛は高松城主清水宗治を説得しますが応じません。そうなれば決戦しかないと総攻撃に出ますが強く抵抗され、痛手を被ります。そこで官兵衛は策を講じます。
信長の死を知り、秀吉に明智光秀討伐を進言する
備中高松城を水攻めし、次第に窮地に追い込みます。そんな中、秀吉の陣中に信長横死の報せが飛び込んできます。
山崎の戦いで明智光秀を破る
天正10年(1582年)6月13日、秀吉軍と明智軍は山崎で戦います。
清須会議にて信長の後継者が秀吉が推す三法師に決まる
天正10年(1582年)7月16日、「清須会議」が開かれ、信長の後継者が秀吉が推す三法師に決まります。
賤ヶ岳の合戦に勝利する
天正11年(1583年)3月12日、勝家軍と秀吉軍は余呉湖を挟んで真っ二つに分かれて向き合いました。
揖東郡1千石を増加され、2万1千石となる
天正11年(1583年)10月2日付けで、黒田官兵衛は播磨の揖東郡1千石を加禄されて2万1千石の所帯となりました。
長男長政が秀吉の養女と結婚
黒田官兵衛の長男長政は秀吉の養女と結婚します。
キリスト教の洗礼を受ける
黒田官兵衛は38歳から40歳の頃に、キリスト教の洗礼を受けます。
織田信雄、家康と通じて秀吉に抗する(小牧・長久手の戦い)
天正12年(1584年)3月15日、小牧山から長久手一帯で合戦が展開されました。いわゆる小牧・長久手の戦いです。
秀吉、長宗我部元親を降伏させる
長宗我部元親は、自力で平定した四国を差し渡す理由はないと、秀吉に恭順を示しません。天正13年(1585年)6月16日、秀吉は異父弟の羽柴秀長を総大将に討伐軍を四国に派遣しました。
秀吉、従一位関白に叙任される
黒田官兵衛たちが四国で戦っている最中の天正13年(1585年)7月1日、秀吉は従一位関白に就任します。
秀吉、島津義久を破り、九州を平定
九州では島津氏が覇権を握らんとしていました。官兵衛は秀吉の到着を待ちつつ、九州の豪族らに調略を試みます。
官兵衛、豊前6郡12万石となる
天正15年7月3日、九州平定の論功行賞が行われました。
秀吉、バテレン追放令を出し、キリシタン禁制を禁止する
天正15年(1587年)、秀吉は九州平定後、キリスト教と南蛮貿易に関する禁制文書、いわゆるバテレン追放令を出し、キリスト教に対して活動を極めて制限しました。
一揆を鎮める
肥後の各地で豪族が蜂起します。足踏みを揃えたかのように、黒田官兵衛が治める豊前でも宇都宮鎮房らが一揆を起こします。
家督を長政に譲る
宇都宮鎮房が官兵衛の留守を狙ったかのように中津城へやってきました。留守を預かった長政は、言葉巧みに鎮房を城内へ招き入れるのでした。
小田原征伐に参謀として臨む
秀吉が天下人になるには関東以北を平定しなければなりません。秀吉は関東の覇者北条氏を攻めにいきます。
秀吉、小田原北条氏を平定し、天下統一なる
小田原の合戦は長引き、両陣ともに厭戦気分が漂います。黒田官兵衛は講和の策を考えます。
参謀長として朝鮮へ出陣するも病を理由に帰国する
文禄元年(1592年)3月、朝鮮の釜山に日本軍15万8千の大兵団が揃いました。文禄の役と呼ばれる大戦が始まりました。
再び朝鮮へ渡る
官兵衛に秀吉は命じられ、文禄2年(1593年)2月に再び朝鮮に渡ります。
黒田節の由来
文禄の役の停戦交渉が行われている頃、伏見の福島正則の屋敷に、黒田長政の使いで酒豪の母里太兵衛がやってきました。
慶長の役の最中、秀吉没する
慶長2年(1597年)2月、再び14万の兵が渡海し、慶長の役が始まります。
次は家康と予言する
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没すると、次は誰が天下人になるかといろいろ思惑が渦巻きます。
東軍につく意志を固める
着々と地歩を固める家康に対し、五奉行の実力者石田三成が立ちはだかります。
近隣の動きを牽制しつつ、九州から上方の情勢を窺う
九州では西軍につく諸将が目立ちます。黒田官兵衛は九州の諸将を牽制しつつ、これから起こる大戦に向けて準備を着々と進めるのでした。
関ヶ原の戦いは半日で決する
慶長5年(1600年)9月9日、関ヶ原の戦いが始まる6日前、黒田官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ました。
九州の西軍を攻め、7つの城を落とす
関ヶ原の戦いは終わったものの黒田官兵衛の戦いは続きます。
長政筑前国52万5千石となる
黒田長政は東軍勝利の一番の功労者として、筑前国名島52万5千石を与えられます。
福岡城の築城を指揮
普請奉行(ふしんぶぎょう)野口左助を中心に福岡城の築城は進みます。
長政に遺言を託し、伏見の藩邸で没す
黒田官兵衛は福岡を離れ京都で暮らすようになります。しかし、体の不調を訴えるようになり、ほとんど床の中で過ごすようになります。