母里太兵衛(もりたへえ)
黒田家の重臣、筑前鷹取城、筑前大隈城城代。
諱は友信。黒田二十四騎。
生没年、1556~1615。
播磨で生まれ少年時代から黒田官兵衛に仕えます。
天正13年(1585年)四国討伐で先手をつとめます。
文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵でも先手をつとめるなど活躍します。いったん帰国した際、使者として福島正則の屋敷に赴きます。そこで大盃に注がれた酒を飲み干し、名槍日本号を手に入れます。この逸話は「黒田節」の由来となりました。=>黒田節の由来
慶長5年(1600年)に起こる関ヶ原の戦いの直前、黒田家屋敷が豊臣方に包囲されると、栗山善助らと協議の末、光と長政の継室栄姫の脱出を成功させます。石垣原の戦いでもよく官兵衛を助けて活躍します。
黒田長政が筑前福岡藩を成立させると、鷹取城の城代を任せられ、慶長11年(1606年)には後藤又兵衛脱藩後の大隈城の城代を任せられます。
元和元年(1615年)6月6日病没。60歳でした。