黒田忠之(くろだただゆき)
黒田長政の嫡男。黒田官兵衛の嫡孫。筑前福岡藩藩主。
母は継室・保科正直の娘栄姫。幼名は万徳丸(まんとくまる)。
生没年、1602~1654。
元和9年(1623年)、父長政の病没に伴い福岡藩主となります。しかし、忠之は官兵衛、長政時代からの功臣を退けて、倉八十太夫らの側近を重用します。倉八十太夫らは、軍船鳳凰丸の建造,足軽隊の増強など幕令を無視するような政策を進めます。
家老栗山利章(栗山利安の嫡子)は忠之を諫めますが、忠之はかえって利章を殺害しようとします。寛永9年(1632年)、利章は江戸に上り、忠之に謀反の心ありと幕府に訴えました。これは黒田家の御家騒動、黒田騒動と呼ばれました。この騒動により、幕府は一旦除封の処分を下しますが、異例にも父祖の功績が勘案されて謀反は否認されます。利章は陸奥盛岡藩南部家に預けられます。失政の張本人である倉八十太夫は追放され、のちに復帰を認められますが島原の乱で戦死します。
寛永15年(1638年)に起こった島原の乱で、忠之は藩兵を率いて活躍を見せます。承応3年(1654年)2月12日に病没。53歳でした。