黒田官兵衛の子孫

黒田官兵衛の子孫

 黒田官兵衛と黒田長政が築き上げた福岡藩。官兵衛と長政が亡くなった後はどのようになっていったのか、順次紹介します。

 

二代・黒田忠之

 黒田忠之(くろだただゆき)。 生没年1602~1654。藩主在位1623~1654。
 父・黒田長政の遺言に従い、弟長興(ながおき)に5万石、高政に4万石を与えます。これで福岡藩の石高は43万3千石になりました。黒田騒動が勃発し、黒田家存亡の大きな危機となりました。

 

三代・黒田光之

 黒田光之(くろだみつゆき)。生没年1628~1707。藩主在位1654~1688。
 福岡藩の財政は忠之末期から窮乏化が始まっていたため、光之は厳しい倹約令を出すなど、藩政改革を実施しました。また、学問に強い関心があり、貝原益軒(かいばらえきけん)に「黒田家譜」を編纂させました。

 

四代・黒田綱政

 黒田綱政(くろだつなまさ)。生没年1659~1711。藩主在位1688~1711。
 叔父の東蓮寺藩主黒田之勝に子がいなかったので一時その跡を継いでいましたが、後に父・光之の跡をついで福岡藩主になりました。光之の代の側近を排除し権力の強化を図ったことで光之と対立します。また、佐賀藩との間で背振山国境論争がおこりました。財政改革のために藩札を発行しますが、逆に米価が昂騰して失敗に終わりました。

 

五代・黒田宣政

 黒田宣政(くろだのぶまさ)。生没年1685~1744。藩主在位1711~1719。
 病弱で政務を行うことができなかったので、藩政を支藩の直方藩主黒田長清(くろだながきよ)に担当させました。また、子にも恵まれなかったので、黒田長清の子・継高を養嗣子として迎え、早くに家督を譲りました。

 

六代・黒田継高

 黒田継高(くろだつぐたか)。生没年1703~1775。藩主在位1719~1769。
 精力的に藩政改革に取り組みます。吉田栄年(よしだまさとし)を登用して運上銀の改定を行い、享保の大飢饉後の窮民対策を施しました。この藩政改革は、一定の成果を収めました。長男重政、三男長経と男子を亡くし、一橋家徳川宗尹の五男治之(はるゆき)を養子に迎えました。

 

七代・黒田治之

 黒田治之(くろだはるゆき)。生没年1753~1781。藩主在位1769~1781。
 治之は養子のため、長政以来の黒田家の血統は途絶えました。治之は精力的に国内を巡見し、亀井南冥(かめいなんめい)を抜擢しました。しかし、若くしてなくなり、嗣子が無かったため、その死はしばらく隠されましたが、結局、黒田治高を末期養子として迎えることにしました。

 

八代・黒田治高

 黒田治高(くろだはるたか)。生没年1754~1782。藩主在位1782。
 讃岐国多度津藩主・京極高慶(きょうごくたかよし)の七男。しかし、治高も治之と同じく若くして亡くなります。一橋徳川家当主・徳川治済(とくがわはるなり)の三男斉隆(なりたか)を末期養子に迎えました。

 

九代・黒田斉隆

 黒田斉隆(くろだなりたか)。生没年1777~1795。藩主在位1782~1795。
 学問好きとして知られています。藩儒竹田定良と儒医亀井南冥に藩校を創建することを命じ、定良が修猷館(しゅうゆうかん)(東学問稽古所)(現・福岡県立修猷館高等学校)、南冥が甘棠館(かんとうかん)(西学問稽古所)を開きました。

 

十代・黒田斉清

 黒田斉清(くろだなりきよ)。生没年1795~1851。藩主在位1795~1834。
 1795年3月26日に誕生し、同年10月6日に父・斉隆の死去により0歳で家督を相続しました。斉清も学問に通じ、長崎警衛を担当した経験から、特にロシアやイギリスへ強い関心を持っていました。海防論『海寇窃策』は高く評価されています。また、鳥類・草木にも深い関心があり、『鷲経』、『鴨経』という著書があります。シーボルトと薬学から動植物・世界地理・文化風習など広く本草学分野について対話しました。この問答を『下問雑戴』としてまとめさせました。

 

十一代・黒田長溥

 黒田長溥(くろだながひろ)。生没年1811~1887。藩主在位1834~1869。
 西洋文明を取り入れようと家臣を長崎に派遣し、写真・印刷・軍艦操練などを導入します。長溥はペリー来航の予告情報を内達され、幕政への参画を決意します。幕府に積極的な開国論を唱えました。

 

十二代・黒田長知

 黒田長知(くろだながとも)。生没年1839~1902。藩主在位1869~1871。
 津藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)の次男で、のちに黒田長溥の養子となります。幕末には、父、長溥に代わり、公武合体と長州藩の赦免を朝廷や幕府に訴えます。版籍奉還後、藩知事となります。しかし、戊辰戦争による財政難から、太政官札や二分金などを贋造したことが発覚し、知事を罷免されました。

 

 このように官兵衛・長政の後も黒田家の家名は受け継がれていきました。官兵衛の血統が受け継がれたのは5代藩主・宣政までです。
 ちなみに現在の黒田家当主は16代の黒田長高さんです。如水興産という不動産会社の代表取締役をされているとのことです。

 

花燃ゆ

 

真田丸