相次ぐ離反、官兵衛摂津有岡城に幽閉される|黒田官兵衛の逸話

相次ぐ離反、黒田官兵衛、摂津有岡城に幽閉される

上月城を奪い返される

 上月城を奪い、いよいよ中国征伐へと意気込む秀吉軍ですが、ここで問題が起こります。天正6年(1577年)3月7日、加古川城にて、織田側についている播磨諸城の城主を集め、中国攻めの分担を決めることになりました。その席で別所氏が離反の意を表明してしまうのです。怒った秀吉は別所長治が城主を努める三木城攻めを決意し、書写山に陣を敷き、1万の兵を三木城に向かわせました。
 秀吉の三木城攻めを見計らったかのように毛利勢が上月城の奪い返しに乗り出してきました。同年4月半ば、吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景が合わせて3万もの兵で上月城を攻めてきました。
 三木城を諦めるか、上月城を見捨てるか。秀吉は判断に頭を悩ませます。「上月城をを捨てては人心がついてきません」と官兵衛は進言します。悩んだ末、秀吉は信長の出陣を請いに竹中半兵衛を信長のもとに向かわせます。ところが信長の決断は非常なものでした。― 書写山に引き返して時をかせげ ― つまり、上月城を捨てて、兵を書写山に引き返させて三木城攻めに集中させよとのことです。
 上月城には城兵七百だけが残されました。これでは勝てるはずもありません。城主尼子勝久は城兵の命と引き換えに自刃し、上月城は同年7月3日に落城しました。

 

相次ぐ謀反

 上月城から撤退した秀吉は三木城攻略のため、周りの神吉城(かんきじょう)や志方城(しかたじょう)を攻め始めます。それと同時に官兵衛に対して、岡山城の宇喜多直家を味方につけさせるよう命じます。官兵衛は宇喜多直家を説き伏せ、織田方につけさせることに成功しました。
 西方の調略が上手くいった一方、東方では緊急の事態が起こります。天正6年(1577年)10月、摂津有岡城の荒木村重が三木城主別所氏と本願寺らと結んで毛利側についてしまったのです。村重は信長から信頼され、摂津一帯の支配を任されていた人物です。これにはさすがの信長も大変驚きます。それだけではなく、こともあろうに、御着城主小寺政織までが荒木村重に同調して離反してしまいました。先の三木城の別所氏と同じですが、最初は信長の勢いに巻かれようと思っていた諸将も、いざ秀吉が大軍でやってくると、拒否感が湧き上がってしまったのです。官兵衛は荒木村重を説得に行くと秀吉に申し出、秀吉もそれを受け入れました。

 

摂津有岡城に幽閉される

 摂津有岡城に向かう官兵衛。荒木村重はかつて信長に官兵衛の戦果を報告し、感謝状の仲介までしてくれたほどなので、話せば分かってくれると踏んでいました。摂津有岡城に着くと城主に面談を申し出ます。ところが、すぐに城内の牢に放り込まれてしまいました。
 いつまでも官兵衛が帰ってこないので、信長は官兵衛が荒木村重に寝返ったと思い込んでしまい、摂津有岡城を包囲してしまいます。こんな織田方の勢いに小寺氏は恐れをなし、また織田側につくようになりました。しかし、災が及ぶのを避けるため黒田氏との関わりを断るようになりました。さすがの秀吉も官兵衛の行動に不信感を持ち、黒田職隆や職隆の弟黒田休夢(くろだ きゅうむ)に改めて忠誠を誓わせます。

 

竹中半兵衛が松寿丸を匿う

 官兵衛が裏切ったと思った信長は、人質として置いていた官兵衛の子松寿丸を殺そうとします。竹中半兵衛は信長に対して、官兵衛は忠義者で敵にする理由がない、官兵衛が敵になれば中国征伐が難しなると説得します。しかし、これでも信長の怒りは収まりません。悩んだ半兵衛は松寿丸を密かに自身の本拠である美濃国不破郡岩手の奥菩提城に匿ったのでした。

 

牢の中で希望を見出す

 陽の射すこともない洞穴のような土牢のなかで、官兵衛は満足に食も与えられず、みるみる衰弱していくのでした。そんな官兵衛を勇気づけたのは、牢の鉄格子に巻きついた藤の蔓(つる)でした。それはやがて薄紫の花房をつけるまでになります。陽の当たらぬ場所でも時が経てばこんなに美しい花を咲かせるではないか。自分も今の苦境の先に花を咲かせようと誓うのでした。それほどに藤の花が印象に残ったので、官兵衛は後に三房の藤の花をあしらった藤巴(ふじどもえ)を家紋にしています。

 

官兵衛不在の中、職隆が黒田家を統率する

 官兵衛不在の黒田家は官兵衛の父、黒田職隆のもと一致団結します。官兵衛の妻光を「御本丸」と称し、また職隆の弟休夢の支えもあり、混乱の中、職隆は黒田家を見事に統率しました。

 

花燃ゆ

 

真田丸

 

 

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姫路城で生まれる
天文15年、黒田官兵衛、幼名万吉が姫路城で生まれます。
母の死を乗り越え強くなろうと思い立つ
永禄2年、黒田官兵衛(幼名、万吉)は母親をなくしたことで内向的な性格になり、文学に耽溺するようになります。そんな万吉は、あることをきかっけに内向気分を振り切ります。
元服とほぼ同時に仕官が決まる
永禄4年(1561年)、官兵衛(幼名、万吉)は元服します。また、ほぼ同時に小寺政職への仕官が決まります。
17歳で初陣を飾る
小寺政職への仕官が決まった官兵衛の意気込みも並々ではありません。あくる永禄5年(1562年)、初陣を飾ります。
結婚と同時に家督を譲り受ける
永禄10年(1567年)、官兵衛は櫛橋伊定の娘光と祝言を挙げました。
長男長政誕生
永禄11年(1568年)、長男長政が誕生します。
慧敏な奇襲で赤松政秀を破る
相変わらずの同士討ちに苦悩する官兵衛。そんななか、永禄12年(1569年)、龍野城主赤松政秀が攻めてきました。
織田信長と羽柴秀吉に初めて対面する
天正三年(1575年)、天下取りの流れは大きく織田信長に動いていると信じていた官兵衛は、自ら織田信長との折衝の使いを申し出たのでした。
中国征伐の先導役に就く
信長、秀吉と初対面を果たした官兵衛。同時に信長から中国征伐の先導役を任されたのでした。
長男と長政を信長に人質として送る
信長は中国討伐のため播磨に秀吉を送り込むことを決めました。その代わり、播磨の有力武将を人質として求めてきました。
信長が秀吉を毛利攻めに出陣させる
織田信長は羽柴秀吉を大将に毛利攻めの大軍を送り込みます。天正5年(1577年)、兵を率いた秀吉は播磨路に入るのでした。
摂津有岡城落城、官兵衛救出される
余りに長引く包囲についに荒木村重が音を上げ、摂津有岡城は落城し、官兵衛は救出されます。
秀吉、三木城の別所長治を自刃させる
黒田官兵衛は姫路城に帰りしばらく静養することになりました。三木城の合戦は「両兵衛」を欠いたまま進みますが、秀吉の徹底した兵糧攻めにより、三木城は悲惨な状況に追い込まれていくのでした。
小寺姓から黒田姓に戻る
秀吉は官兵衛に黒田姓に戻すよう勧めます。
一万石の大名になる
播磨制圧の論功行賞として黒田官兵衛は1万石の知行を与えられ大名に列することになりました。
備中高松城を水攻めする
秀吉軍は備中高松城の攻略にかかります。黒田官兵衛は高松城主清水宗治を説得しますが応じません。そうなれば決戦しかないと総攻撃に出ますが強く抵抗され、痛手を被ります。そこで官兵衛は策を講じます。
信長の死を知り、秀吉に明智光秀討伐を進言する
備中高松城を水攻めし、次第に窮地に追い込みます。そんな中、秀吉の陣中に信長横死の報せが飛び込んできます。
山崎の戦いで明智光秀を破る
天正10年(1582年)6月13日、秀吉軍と明智軍は山崎で戦います。
清須会議にて信長の後継者が秀吉が推す三法師に決まる
天正10年(1582年)7月16日、「清須会議」が開かれ、信長の後継者が秀吉が推す三法師に決まります。
賤ヶ岳の合戦に勝利する
天正11年(1583年)3月12日、勝家軍と秀吉軍は余呉湖を挟んで真っ二つに分かれて向き合いました。
揖東郡1千石を増加され、2万1千石となる
天正11年(1583年)10月2日付けで、黒田官兵衛は播磨の揖東郡1千石を加禄されて2万1千石の所帯となりました。
長男長政が秀吉の養女と結婚
黒田官兵衛の長男長政は秀吉の養女と結婚します。
キリスト教の洗礼を受ける
黒田官兵衛は38歳から40歳の頃に、キリスト教の洗礼を受けます。
織田信雄、家康と通じて秀吉に抗する(小牧・長久手の戦い)
天正12年(1584年)3月15日、小牧山から長久手一帯で合戦が展開されました。いわゆる小牧・長久手の戦いです。
秀吉、長宗我部元親を降伏させる
長宗我部元親は、自力で平定した四国を差し渡す理由はないと、秀吉に恭順を示しません。天正13年(1585年)6月16日、秀吉は異父弟の羽柴秀長を総大将に討伐軍を四国に派遣しました。
秀吉、従一位関白に叙任される
黒田官兵衛たちが四国で戦っている最中の天正13年(1585年)7月1日、秀吉は従一位関白に就任します。
秀吉、島津義久を破り、九州を平定
九州では島津氏が覇権を握らんとしていました。官兵衛は秀吉の到着を待ちつつ、九州の豪族らに調略を試みます。
官兵衛、豊前6郡12万石となる
天正15年7月3日、九州平定の論功行賞が行われました。
秀吉、バテレン追放令を出し、キリシタン禁制を禁止する
天正15年(1587年)、秀吉は九州平定後、キリスト教と南蛮貿易に関する禁制文書、いわゆるバテレン追放令を出し、キリスト教に対して活動を極めて制限しました。
一揆を鎮める
肥後の各地で豪族が蜂起します。足踏みを揃えたかのように、黒田官兵衛が治める豊前でも宇都宮鎮房らが一揆を起こします。
家督を長政に譲る
宇都宮鎮房が官兵衛の留守を狙ったかのように中津城へやってきました。留守を預かった長政は、言葉巧みに鎮房を城内へ招き入れるのでした。
小田原征伐に参謀として臨む
秀吉が天下人になるには関東以北を平定しなければなりません。秀吉は関東の覇者北条氏を攻めにいきます。
秀吉、小田原北条氏を平定し、天下統一なる
小田原の合戦は長引き、両陣ともに厭戦気分が漂います。黒田官兵衛は講和の策を考えます。
参謀長として朝鮮へ出陣するも病を理由に帰国する
文禄元年(1592年)3月、朝鮮の釜山に日本軍15万8千の大兵団が揃いました。文禄の役と呼ばれる大戦が始まりました。
再び朝鮮へ渡る
官兵衛に秀吉は命じられ、文禄2年(1593年)2月に再び朝鮮に渡ります。
黒田節の由来
文禄の役の停戦交渉が行われている頃、伏見の福島正則の屋敷に、黒田長政の使いで酒豪の母里太兵衛がやってきました。
慶長の役の最中、秀吉没する
慶長2年(1597年)2月、再び14万の兵が渡海し、慶長の役が始まります。
次は家康と予言する
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没すると、次は誰が天下人になるかといろいろ思惑が渦巻きます。
東軍につく意志を固める
着々と地歩を固める家康に対し、五奉行の実力者石田三成が立ちはだかります。
近隣の動きを牽制しつつ、九州から上方の情勢を窺う
九州では西軍につく諸将が目立ちます。黒田官兵衛は九州の諸将を牽制しつつ、これから起こる大戦に向けて準備を着々と進めるのでした。
関ヶ原の戦いは半日で決する
慶長5年(1600年)9月9日、関ヶ原の戦いが始まる6日前、黒田官兵衛は9千の兵を率いて中津城を出ました。
九州の西軍を攻め、7つの城を落とす
関ヶ原の戦いは終わったものの黒田官兵衛の戦いは続きます。
長政筑前国52万5千石となる
黒田長政は東軍勝利の一番の功労者として、筑前国名島52万5千石を与えられます。
福岡城の築城を指揮
普請奉行(ふしんぶぎょう)野口左助を中心に福岡城の築城は進みます。
長政に遺言を託し、伏見の藩邸で没す
黒田官兵衛は福岡を離れ京都で暮らすようになります。しかし、体の不調を訴えるようになり、ほとんど床の中で過ごすようになります。