黒田家 略家系図

黒田家 略家系図

宇多天皇……佐々木氏……黒田宗満―黒田宗信―黒田高教―黒田高宗―黒田高政―
―黒田重隆―黒田職隆→

 

黒田官兵衛
├黒田利高
├黒田利則
└黒田直之

 

―黒田長政→
└黒田熊之助

 

―黒田忠之……
├黒田政冬
├黒田長興
└黒田隆政

 

黒田官兵衛までの黒田家

 宇多天皇(うだてんのう)の孫雅信(まさのぶ)が平安時代前期に臣籍に下って源雅信と名乗り、近江源氏(おうみげんじ)の旗を掲げます。その孫源成頼(しげより)が佐々木氏を名乗り始めます。中世に入ると佐々木一門は、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏に分かれます。そのひとつ京極氏から黒田家を分立させたのが黒田宗満(くろだむねみつ)でした。

 

黒田宗満

 黒田氏発祥の地は近江国伊香郡黒田邑(おうみのくにいかのこおりくろだむら)、現滋賀県伊香郡木之本町黒田です。
 そこに住みついて地名にちなんで黒田氏を名乗り初めたのが黒田宗満(くろだむねみつ)です。官兵衛の7代前にあたります。
 南北朝時代の延文2年(1357年)に79歳で他界しています。

 

黒田高政

 黒田高政(くろだたかまさ)は黒田家5代目で官兵衛の曽祖父にあたります。
 武力に長けており、永正8年(1511年)8月の足利義稙と足利義澄の戦いにおいても、義稙側につき勇敢に戦い勝ちに貢献します。しかし、高政が軍令に背いて先駆けしたとねじ曲げて報告され、将軍の叱責を受け、高政は近江を追放されてしまうのでした。高政は息子の重隆(しげたか)を連れて流浪し、備前国邑久郡福岡、現岡山県邑久郡長船町福岡に落ち着きます。そこで高政は再起を狙いますが、飛躍のきっかけすらつかめぬまま大永3年(1523年)に亡くなります。

 

黒田重隆

 黒田重隆が16歳の時、父高政は亡くなります。これから先どうしたらいいか思案した重隆は、黒田家に先祖から伝わっていた目薬の調合法に注目します。さっそく家主竹森新右衛門に資金を借り薬種を買い揃え、黒田家流目薬を調合します。これを地元の福岡の刀鍛冶に試してもらったところ、とても良く効くと評判になりました。良い評判が広まると、注文がぞくぞくと来るようになりました。重隆は目薬の商売で成功を収めたのです。その一方で武家の誇りも持っていました。父高政の無念を晴らしたいという思いもありました。重隆は享禄3年(1530年)、23歳のときに7歳の職隆を伴い、播磨国姫路の守護代小寺家を訪ねます。そして御着城の新しく城主になった小寺則職に仕えることになりました。

 

黒田職隆

 黒田職隆(くろだもとたか)は黒田重隆の子です。重隆と職隆の親子は、天文12年(1543年)の大晦日にかねてから小寺家を脅かしていた香山城を攻め落とす快挙を見せます。成果を積み重ねる黒田家は次第に御着城になくてはならない存在となりました。そして、この黒田職隆の子となるのが黒田官兵衛なのでした。

 

花燃ゆ

 

真田丸

 

 

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