竹中半兵衛

竹中半兵衛(たけなかはんべえ)

 豊臣秀吉の与力。美濃菩提山城主。
 竹中重元の嫡子。諱は重治または重虎。
 生没年、1544~1579。

 

 父重元の病没に伴い家督を継ぐと、斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。美濃に侵攻してきた織田信長を独特の戦法で撃退するなど活躍しますが、龍興の側近の中に半兵衛を侮るものがあり、半兵衛は憤りを感じます。
 永禄7年(1564年)、安藤守就らと共謀し、たった十数人で龍興の美濃稲葉山城を奪い取ります。8ヶ月占拠した後、龍興に返却し、半兵衛は斉藤家を去ります。そんな人となりを聞いた豊臣秀吉の勧誘を受け、織田信長に仕え、秀吉の与力となります。秀吉が信長から中国の平定を命じられますが、このときに黒田官兵衛を知ります。
 天正5年(1577年)、播磨佐用城と上月城の戦いでは、官兵衛と半兵衛が協力して戦いますが、敵の抵抗が凄まじかったこともあり苦戦しました。
 天正6年(1578年)、官兵衛が摂津有岡城に幽閉されると、信長は官兵衛が裏切ったと勘違いし、人質である官兵衛の子長政を殺すよう命じます。その役目は半兵衛が任されることになりましたが、半兵衛は長政を菩提山城下に匿い、長政は難を逃れます。その後、半兵衛は秀吉に従い各地を転戦しますが、病のため京都に帰って療養します。
 天正7年(1579年)半兵衛は播磨三木城の戦いに復帰しますが、6月13日に病没。36歳でした。

 

 後世、秀吉の参謀として活躍した竹中半兵衛は、黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と並び称されるのでした。

 

花燃ゆ

 

真田丸

 

 

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