後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
黒田家の重臣、筑前大隈(おおくま)城城代。
諱は基次。黒田二十四騎。
生没年、1560~1615。
天正6年(1578年)に黒田官兵衛が荒木村重の摂津有岡城に幽閉されると、叔父の藤岡九兵衛が村重に同調したため、又兵衛もいったん黒田家を去ります。しかし、黒田長政の配慮で黒田家に復帰し、栗山善助の与力となります。
天正15年(1587年)の九州攻め、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)で活躍します。
慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは、先手をつとめて、勝利に貢献します。戦後の論功行賞で大隈城城代を任せられることになります。しかし、この後に長政と対立。慶長11年(1606年)に脱藩します。
元和9年(1615年)には大坂夏の陣で豊臣方で参戦します。道明寺の戦いにて、濃霧のために薄田兼相、明石全登、真田幸村らの軍との合流に失敗。孤立した又兵衛は片倉重長の鉄砲隊に突撃を敢行しますが敢え無く討死。55歳でした。